おまけ


『とらかぷっ!』ショートストーリー
 


トラのかみさま、ネコのおうさま

【1】月に吼えるもの

 大きな月だった。

 白銀色のそれは星空の真ん中で、まるで猫の目のように輝いていた。

 その月光に照らされた森の中、昼間の熱気を払うように、さらり、と風が流れていく。

 濃緑の木々のざわめき。
 高く涼やかな虫の声。

 まさしく、それは夏の夜の情景だった。

 ―――虎耳山中腹。

 ここは下界の祭のざわめきも遠く、ただ、自然の奏でるいくつかの音だけが響いていた。

 静かで心地よい、だが、少しだけ寂しい感じのする空間。

 そんな山中に、小さな社があった。
 ともすれば、勢いよく繁る木々に埋もれてしまいそうな、古く、寂れた社。

 通う者もなく、まるで時間に忘れ去られてしまったかのようなその社を、月光は等しく静かに照らしていた。

 静かに……。

 そう、ただ静かに…………。

            §

「どうなってんのよーーーー!!」

 突然響いた大きな声に、静寂は破られた。

 遠くで、眠りを妨げられた鳥達が一斉に飛び立つ。

「がるるるぅっっ!!!!
 なんでっ、なんで誰もいないのよーーっ!」

「こらーーっ!
 だれかでてこーーーいっ!!!」

 月も震えよとばかりに響く甲高い声。
 声の主は少女らしい。

「宴はどうしたのよ!
 ご馳走で大歓迎って聞いたわよっっ!!」

 少女はさらに声を張り上げる。

 だが、闇色の夜の山を揺るがす雄たけびに―――。

 返ってくる声は…………ない。

「食べきれないくらいのご馳走の山は!?
 海の幸と山の幸はどうしたのよ!?」

「……獣ノ神を祭る一族は……どこよ…………」

 徐々に勢いを失う声。

 それは砂浜の水のように暗闇に吸い込まれ、山はすぐに元の静けさを取り戻した。

「がるぅ……」

 震える声。

 しかし、震えているのは声だけではない。
 少女の白く小さな肩もまた、ふるふると震えていた。

 黒と白を基調とした、和服とも洋服とも見える服。
 胸には和結びの黄色いリボンが印象的だ。

 頭とお尻でゆらゆらと動くもの。
 ふわふわとした毛に包まれたそれは、耳と尻尾。

 彼女の名は『桜姫(おうき)』。

 60年に一度の大大祭に、この四方山の地に降り立った獣ノ神の代表だ。

「っ!! …………が、がるっ!」

 なにかを思い出したかのように、桜姫は腰の巾着を開く。
 出てきたのは古ぼけた一冊の本。

 桜姫はそれを勢いよく開くと、目的の記述を探して荒々しくページをめくった。

「……あ、あった!」

 『虎の巻、四大特別付録。四方山特別マップ!』
 そう書かれたページを目いっぱいに開くと、桜姫は何度も何度も、今いる位置とその地図とを見比べる。

「…………き、きっと何かの間違いよ!
 たぶん場所を間違えたのよ!
 獣ノ神の神社がこんなに寂しいはずないじゃない!」

 自分に言い聞かせるようにして、地図を見つめる桜姫。

 最初は威勢良く。
 だが、その表情はどんどん曇っていく。

「………………が、がる…………」

 地脈の流れ、星の位置、方角……。
 調べれば調べるほど、それは確かになっていく。

 ……そう、まちがいない。

 ここは獣ノ神の神社―――虎耳神社だった。

「な、なんで……。
 じゃあなんで…………」

「だれもいないのよーーーーっ!!!!」」

 桜姫の声が再び夜空にこだまする。
 だが、相変わらず返事はない。

 歓迎の宴どころか、もう何年も人が寄り付いた気配さえ感じられない廃屋。

 一人立ち尽くす桜姫の足元。
 そこを、一陣の風が音を立てて吹き抜けた。

「…………もしかして…………」

「……本当につぶれちゃったの…………?」

 呟くようなその声に、虫の声が重なる。
 その静けさが、桜姫の中の寂しさを、いたずらに大きくしていく。

「そんな……」

「そんなのって…………」

 また、肩が震える。

「…………せっかく代表になったのに……。
 ……そのために、一生懸命がんばったのに…………」

 うつむいた顔から漏れる声。

「こんなの…………こんなのって…………」

 僅かに……そして、確かに。
 涙の予兆を含んだ、か細い声。
 それは、闊達な少女らしからぬものだった。

「いったい……なんなのよ…………」

 期待に胸を膨らませて降りてきたその世界は、あまりに大きく変わってしまっていた。

 60年―――5周期。
 それは、桜姫の住む世界ではほんの短い時間。

 だがそれは、この世界では社が廃れるほどの長い長い時間。

 そして、子供が老人になり、人が一生を終えてしまうかもしれない時間なのだ。

 桜姫の目の前の現実が、桜姫にそれを思い知らせる。

 夢見た世界は、もうここにはない。

「…………う……ううう…………」

 興奮はそのまま寂しさとなり、期待は不安に変わる。

 心の締め付けられるような孤独。
 桜姫は、その中に一人放り出されていた。

 ふ、と心が折れそうになる。
 心の奥深くに強く抑え込んでいたはずの言葉が、つい、口をついた。

「…………かあさま……」

 その言葉が契機だった。
 堪えていたもの―――涙が堰を切る。

 溢れる。
 止まらない。
 目頭を、熱いものが伝う。

「がる……」

 桜姫はいつも、人に泣いた顔は見せなかった。

 訓練が辛いときも。
 心無い言葉を言われた時も。
 一人が寂しい時も。

 いつだって、彼女は泣かなかった。

 ただ一人の家族―――母親。
 大好きなその人がいなくなった日からずっと、母の言葉を守り続けてきた。

 でも、今は。
 その目標が消えかかった今は……。

 もう、彼女にはその涙を堪えることが……。

「う……うう………………」

 こらえることが…………。

「ううんっ!!」

 突然、桜姫はうなだれていた頭をぶんぶんと振った。

「がるるるるぅっ!!!」

 そして、折れそうになる心を叱咤するように雄たけびをあげる。

『泣いちゃダメだ!』

 夜の闇に、桜姫の心の声が響く。
 しん、と静かな社に、確かな意思が立ち昇っていた。

 どんな時も、前向きに諦めない。
 それが彼女の誇り。

 大好きな母、姫咲の自慢の娘であることが、桜姫の誇りなのだ。

『こんな所で泣くのは自分じゃない。
 こんなんじゃ、かあさまにあわせる顔がない』

『なくもんか。
 絶対なくもんか』

 溢れ出す涙をぐっと堪え、手の甲でぐいっと頬をぬぐう。
 涙も、自分らしくない自分も、一気に吹き飛ばすように。

「見てなさい!!
 誰も迎えにこないなら、こっちが探してやるわよ!」

「神社なんかなくったって、全然問題ないわっ!
 わたしひとりで、じゅーぶんよっ!」

「黒なんて全部払ってやるんだから!!
 この、獣ノ神の桜姫がねっ!!」

 大きな、しかし、誰が聞くわけでもない声。
 あえて言うならこの四方山全体に向かって、桜姫は宣戦布告した。

 その顔はさっきまでの泣き顔ではない。
 やる気と自信に溢れる、いつもの桜姫の表情だ。

「……ふんっ!
 まずは、景気づけに腹ごしらえよ!」

「腹が減っては戦はできないわ!
 今こそ、とっておきのニボシを開ける時ね!」

 高らかにそう宣言すると、桜姫は巾着に手を突っ込み、今度はその中から小さな袋を取り出した。

 それは、獣の足跡のアップリケが施された、手作りの雰囲気のある袋だった。

「ん〜〜、いい匂い♪
 さすがは一級品ね〜〜」

 桜姫の顔がたちまち緩む。
 宝石を取り出すように恭しく袋の口を開くと、その中のものをひと掴み、口の中へと放り込んだ。

「ぽりぽりぽり…………うふふふ……」

 緩んだ顔がさらに緩む。
 至福の表情で、その味をかみ締める。

 それは、小さな雑魚を干したもの。
 この世界でも、神様の世界でもニボシと呼ばれている物だった。

「ぽりぽり…………にゃ、にゃふふ〜〜〜♪」

 安価で庶民的なこの食べ物。
 いや、食べ物としてよりはダシをとるための物としての認識のほうが一般的だろう。

 しかし、そのニボシが桜姫にとっての大好物である事は、今の彼女の姿を見ればあえて説明する必要もないだろう。

「ぽりぽりぽり……にゃふ。
 ぽりぽりぽり…………にゃふふふふ……♪」

 お手軽な幸せを、文字通り噛み締める桜姫であった。

            §

「…………にゃっ?」

 幸せ気分に垂れ下がっていた桜姫の耳が、突然ピクリと反応した。

 人の耳では聞き取れないほどの、ほんのかすかな物音。
 それを、獣ノ神の鋭敏な耳は聞き逃さなかった。

 物音の正体を見極めるため、さらに神経を研ぎ澄ます。
 と同時に、桜姫の身体は戦闘の準備を整えていた。

「………………あしおと……?」

 聞こえてきたのは足音。

 それも、小さくて軽い。
 ひとつではなく、たくさんの。

 その数、10……。
 いや、100以上……。

「……これって…………」

 たくさんの小さなものが、近づいてくる。
 やがて、その足音に混ざって聞こえてくる声。

「…………にゃーーー……」

「にーー…………」

 甘く、撫でるような声。
 それは、鳴き声だった。

「…………にゃにゃ」

「んにゃあ……」

 そして、闇に灯るたくさんの光点。
 月の光を反射して輝く、金色の瞳。

 ―――ネコの瞳。

 いつの間にか、桜姫はたくさんのネコに囲まれていた。

「にゃにゃにゃ」

「にーにーー」

 境内に溢れる、ネコの鳴き声。
 それは、重なり合いながら、さざなみのように広がっていく。

 そして、獣ノ神である桜姫には、その声はただの鳴き声ではなく、意味をなすものとして聞こえていた。

「かみさまだ……」

「やっぱりかみさまだ……」

「神様が来た……」

「獣ノ神様だ!」

「ニボシ……美味しそうだなぁ」

「本当にいたんだ。
 お婆ちゃんの話は本当だったんだ」

「わーい! 四方山に神様が降りてきた!」

「まつりだ、まつりが始まるぞ!」

 ネコたちの声が徐々に熱を帯びていく。

 期待と興奮。
 その場にいるすべてのネコの目が、桜姫を見て輝く。

「かみさま!」

「かみさま!!」

「かみさまっ!!」

 いつしか巻き起こる、桜姫を称える歓声の渦。
 深夜の山奥で、ネコの大合唱が響き渡る。

「………………」

 桜姫は最初、何が起こっているのかわからず、ただ呆然と口を開けていた。

 だが、ネコたちの歓声をその身に浴びるにつれ、桜姫の顔にみるみる明るい色がさしてくる。

「ぽりぽり……ごくんっ!」

 食べかけのニボシを一気に飲み込むと、桜姫は勢いよく立ち上がった。

「おおっ?」

「立った、立ったぞ!」

 ざわめくネコたちの前に仁王立ちして、桜姫はそのままえへんと胸を張り、高らかに宣言した。

 これ以上ないくらい、自信たっぷりに。

「そうっ! わたしが獣ノ神桜姫よっ!!」


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